小久保 凰洋作品集
李方子妃への思い
英親王妃李方子韓日友好増進と障害児の福祉向上のため に設立した慈行会を日本に支部まで作って韓日間の文化交流を通じて両国の親睦に余生を捧げられた、女神とも云われた方です。私は李方子妃を日本人として大変御尊敬申し上げており、何時か一度でいいからお墓参りをしたいと ずーと前からの夢でございました。
それが、金奉桂先生、李京愛先生、李京愛先生のお嬢様を通して金寿任先生とお会いする事により、李方子妃のお 墓参りがかないました。李京愛先生からは李方子妃のお作りになった抹茶茶碗まで頂戴しびっくり致し、夢のようでございました。
お墓参りしている時雨がパラパラと降ってきましたがすぐいいお天気に変わりました。金寿任先生のお話ですと月二回お参りしますが、何時もこのように涙雨が降るんですよと話しておられ、不思議に思いますとおっしゃっておられました。
今は関係者以外はお参りする事はできませんが金寿任先生はここを公園にして家族でお弁当を広げて楽しい場所にしたいので、今その運動をしていますと話しておられました。九十四才でお元気ではつらつとしていらっしゃる先生に頭が下がる思いでした。
何より金寿任先生の御健康を祈るのみでございました。
左:金寿任氏(慈行会創立理事、1997年W杯・全州冬季ユニバ シアード競技大会・2002年韓国W杯で82歳という最高齢の通訳 ボランティア記録をもつ。) 現在94歳、李方子皇太子妃の墓地 を毎月1日と15日の二回、26年間欠かさず英国に墓参している。 慈行会は韓国と日本をつなぐ韓日親善の架橋である
梨本宮方子
大韓帝国の最後の皇太子妃であり、義民太子李退の妃である。
1901年11月4日(日本出生、丑年) ~1989年4月30日(昌徳宮築善斎、享年87歳)
- 経歴
- 社会福祉法人明輝園、慈行会総裁
- 家族
- 配偶者、大韓帝国の第3代皇室の首長 義民皇太子(英親王)
- 子供
- 皇太孫 李玖
- 学歴
- 韓国外国語大学名誉博士、韓国社会事業大学名誉博士
- 称号
- 大同宗約院で上げた私諡は顕徳貞穂温清慈行皇太子妃
- 両親
- 父 梨本宮守正、母 梨本宮伊都子
- 職歴
- 光明市明恵学校理事長、水源市慈恵学校理事長
- 褒章
- 1989年国民勲章無窮花章
一九〇一年十一月四日、日本の明治天皇の甥であり、皇族の梨本宮守正とその妻梨本宮伊都子(一八八ニー一九七六)の長女として東京で生まれた。 いとこ(従姉妹)の久途宮良子(クニノミヤ・ナガコ)及び華族一条朝子(イチジョウ・トキコ)らととも に皇太子裕仁の強力な配偶者候補となる。
一九二〇年日本皇室の教育機関である学習院女子高等科を経て、同年四月二十八日、東京六本木で李娘と結婚式を挙げた。
一九二二年長男晉を生んだが、翌年朝鮮訪問中に失う悲しみを経験した。一九二三年関東大虐殺で誣告した朝鮮人が死んで行くのを見た衝撃で自責の日々を送った。
一九三一年に二男の玖を生んで再び幸せな生活をしたが、一九四五年日本の敗戦後、李王家が廃止されたことによって、身分が降格されて財産を没収された。李果の復権を恐れた李承晩大統領の妨害により帰国まで挫折すると、在日韓国人としてつらい人生を生きた。
一九六〇年四月十九日のことで、李承晩が下野して新たに政権を握った朴正熙(当時)国家再建最高会 議議長の招待で一九六三年、家族とともに帰国して 韓国国籍を回復し、昌徳宮楽善斎で暮らした。
韓国で過ごし、普段夫と構想してきた福祉事業を 開始して一九六二年、身体障害者リハビリ協議会副 会長に就任したり、一九六六年、心身障害者たちの リハビリのために慈行会を、一九六三七年、聾唖およびソアマビジャらの社会適応のため、明輝園をそれぞれ設立し、かつ海外募金活動と七宝を通じて福 祉事業資金を集めた。